163: 風吹けば名無し 2014/02/05(水) 12:27:20.82
1568年に関宿城が陥落寸前なんて嘘っぱち
裏付ける一次資料が全くないのが現状

北条は1567年に三船山で里見に大敗した上、
1568年末には武田の駿河侵攻により駿河派兵を強いられてる
よって関宿城に大軍派遣する余力はないし寡兵で落とせるほど弱っちい城じゃない
だいたい和睦交渉してる最中に相手方の城攻めたら交渉決裂する

武田が駿河侵攻して甲相駿同盟破綻した瞬間、
関宿城攻めを中止して駿河へ転戦したと考えるべき

228: 風吹けば名無し 2014/03/01(土) 15:57:06.59
>>163
9/23についに北条方が本格的な関宿攻略を目指し栗橋城の普請が開始され、
氏照が栗橋城に11/19前後に入ってる。
一方の謙信は11/7より本庄攻めに自身が参加している。
12/5に佐竹の北義斯が上杉へ「関宿凶事眼前」と報じ、
義重も上杉へ「少々無人衆候共、一刻片時も御急二候」とすぐ越山するように懇願している。
12/13(氏真書状)の信玄による今川攻め開始と
それを待ちわびて出陣準備していた氏政の12/12(由良書状)今川救援出陣を挟んで
永禄12年2/5にはついに多賀谷まで直接、上杉へ「御急速御越山ニ相極候」
2/11には太田が上杉へ「今来月之内茂被抱間敷由」と悲痛な書状を出し、
3/7には白井の長尾憲景が「至無御越山者、可為自落候」と切迫さが増す内容を書いている。
困難な信玄との戦いに直面した北条は関宿を人質に謙信と交渉することになった。

164: 風吹けば名無し 2014/02/06(木) 13:07:41.28
1568年といえば謙信が大ピンチだった年だな

敵その壱:甲斐守護・武田信玄
敵その弐:相模守護・北条氏康
敵その参:揚北衆・本庄繁長
敵その四:越中守護代・椎名康胤
敵その伍:越中一向一揆(瑞泉寺・勝興寺)
敵その六:能登守護畠山家重臣・長続連

これだけ敵だらけじゃ越相同盟結ばざるを得ないか

165: 風吹けば名無し 2014/02/06(木) 16:16:57.36
>>164
敵多すぎやろw
その中に神保さんも入ってるんだから凄えわ

166: 風吹けば名無し 2014/02/09(日) 12:14:45.31
北条、武田より越中一向一揆のが強いイメージ。信長があの財力で相当な期間一向宗鎮圧に
時間かかってるし。

167: 風吹けば名無し 2014/02/09(日) 13:54:56.73
越中一向一揆は勝興寺と瑞泉寺が中心なわけだが、謙信と最初に衝突したのは1568年
いわゆる「放生津(ほうじょうづ)の戦い」と言われる合戦

1568年の謙信越中出兵は、それまでの神保長職討伐とは目的が違う
能登守護畠山義綱が重臣長続連らに追放されて救援要請しており、
義綱の七尾城奪還を支援するための出兵であった

上杉謙信・畠山義綱連合が長続連・勝興寺連合を破って義綱の復権に至る計画だったが、武田信玄の謀略が炸裂

3月、上杉軍、放生津に陣を張り、庄川・小矢部川を挟んで勝興寺・守山城の越中一向一揆と対陣、攻撃
同月、揚北衆・本庄繁長が信玄に通じ謀反(本庄繁長の乱)! 謙信やむを得ず攻撃中止し引き返す
4月頃、越中守護代・椎名康胤も信玄に通じ謀反!
7月、武田軍が信濃最北部の飯山城を攻撃、越後を脅かす
結果、謙信の支援を十分受けられなかった畠山義綱は七尾城復帰に失敗

その間に信玄は駿河攻めを敢行、今川氏真を撃破して駿河を徐々に制圧
内通した本庄繁長・椎名康胤は見殺し。戦略的に信玄の勝利、謙信の敗北。
さすが信玄、鬼畜の鏡、いや、男の鏡

その後本庄繁長の乱を鎮圧した謙信は武田・北条・越中の三方面作戦は困難とみて越相同盟を結ぶ

168: 風吹けば名無し 2014/02/09(日) 14:12:04.67
続いて謙信の五大攻城戦の一つ、「松倉城の戦い」について

1569年8月、謙信は逆賊・椎名康胤を討つため兵1万7千を率いて康胤の居城・松倉城を百日に渡って攻撃
しかし松倉城は越中三大山城の一つで実質的に越中最強の堅城であったため、流石の謙信でもこの年は落とせず
支城数箇所を落城させ、松倉城に損害を与えて越後に帰還

1570年、関東へ出兵した謙信は松倉城への抑えとして河田長親を越中に残す

1571年3月、今度は謙信、兵2万8千を率いて松倉城を猛攻(「謙信年譜」)
力攻めは困難と見て水の手を断ち、さしもの名城もついに落城、椎名康胤は逃走

169: 風吹けば名無し 2014/02/09(日) 22:26:16.40
さすがに武田北条のが強いだろうけど一向一揆も粘り強いので有名だからな

引用元: ・上杉謙信は戦国最強【信玄・氏康・信長・一揆を圧倒